暇に任せて、と言いながら結構真剣に考えた話を、ちょっと小難しくて申し訳ないんですけど、図なんかも使いながら工夫して書いて見ますんで、ご用とお急ぎのない方はどうぞ。えっ、「てめえの他にそんな奴いるかよ!」ですって。まことにごもっともです、はい。

 ※「小鬼の居留地」というのは、クリフォード・シマックが書いた素敵なSFファンタジー。近い未来、宇宙は転送ネットワークで結ばれ、宇宙人は勿論、妖精や幽霊さえも居留地に住んでいる地球。そこで起こるミステリーなんですが、最後に龍が夜空に飛び立つ所なんて、それはそれは美しい。(文庫では絶版なので、読みたければお貸しします。)
 じゃあ何でこのページが「小鬼の居留地」なのかって?それは、想像力が羽ばたき冒険する場所だからに決まっているじゃないですか?

「間」の感覚の話

 以下は、もう少し全体を見るための途上での「作業仮説」です。
 「間がいいんだか、悪いんだか」という間は「時間がニーズに合うかどうか」というタイミングのこと。
 邦楽や演劇で言う「間」は、「時間の合間」、であり、「動作=行為の合間」であったりする。あるいは自分を取り巻く「環境=空間の合間」も含みえます。
 では、ここで取り上げる「間」あるいは「間の感覚」とは何か。一応それを「人が関わる行為の中での、行為しないこと、あるいは行為を止めること、そしてその時間的経過あるいは取り巻く環境についてのとらえ方の感覚」としておきましょう。
 「よう分からん?」とりあえず、「じっとしているときの時間と環境についての感覚」のこっちゃな。くらいの大体のイメージだけでいいんですよ。とりあえず。次行きまっせ。

◇音と沈黙  

 イメージをつかむために、音と沈黙の話をしましょう。武満徹の本に「音、沈黙と測りあえるほどに」というのがありました。
 いきなり核心に入りますが、ここでは沈黙がいわば「自然な状態」であり、それと拮抗するものとして「音」がとらえられています。つまり、我々は沈黙に包まれており、その中で音を発するのです。「沈黙と共演する」とさえ言っていいかもしれません。邦楽の「鼓」をイメージしてください。鼓が打たれた習慣の音だけでなく、その合間の沈黙も含めて、全体が音楽であると僕らはとらえていませんか?近代的な記譜法での休止符とは違うものとして、「間」はとらえられていないでしょうか?
 
 右脳、左脳ブームでよく言われたこととして、我々は虫の音を音楽としてとらえるが、西洋人はそう聞かない、とよく聞きます。おそらくそうなのでしょうが、では鳥の声はどうか?フランスのメシアンには「鳥のカタログ」を始め、鳥のさえずりを音楽にした曲がいくつもあります。
 あるいは、ハンガリーのバルトークには「夜の音楽」というピアノ曲があって、夜の森の響きを彷彿とさせます。もっともハンガリー人(マジャール民族)は、その出自からしてかなり東洋的要素を持った民族のようなので、これははずしておきましょう。

「自」のイメージ

 鳥、というのは人間にはよく認識された存在のようです。マタイ伝にいう「空の小鳥を見よ。」、アシッジの聖フランチェスコが小鳥に神の教えを説いた。ノアの箱船にも鳥の場所はあった。etc.中世のエウリゲナの階層的宇宙図のなかにもいたような気がします。(余談ですが、この辺と真言密教の金剛界・胎蔵界マンダラとの対比なんかおもしろそう。)
 ところが虫は、そのような位置づけにはなっていない。つまり、虫は自然の中で個別の地位を与えられていない、だから虫の音は単なる「雑音=ノイズ」ということになります。階層的宇宙というのは、実は神を一番上に、序列つまり偉い順番で貼り付けられたものであり、人間は当然かなり偉いのです。魂のあるなし、獣かどうか、というのは獣と共同生活をしてきた西欧人にとっては、自分の位置づけを正当化できるかどうか、かなり切実な問題なのです。
 西欧的自然とは、人間の外側にあり、恵みを与えもし、時として人間を脅かすものであり、人間としてはこれを制御し管理しなければならないものなのです。また、「自然の摂理」と呼ばれるように、自立的に、システマティックに営まれているもの、というイメージです。
 つまり、西欧的イメージでは人間は自然と対峙しており、自然に包まれてはいないのです。

「間」とは「包まれてある感覚」

  西欧的自然観の例  
                                       
               
 西欧的には人間は「個」として、自由で自立していかなくてはならない。自然に対峙し、他人にも対峙して。これはかなり厳しい事です。自立=インディペンデンス、常に自分を主張し、正当化する。一方で孤独への深い恐怖。依存=ディペンデンスを否定しながら、家族や国家など共同体的価値に依存し、それによって自分の正義を主張する。
  結局、「われ」と「かれ」を対峙させた場合、「それらをつなぐもの」、あるいは「それらを包むもの」としての「何か」は、はじき飛ばされてしまいます。
 

自立した  自然
個  人


 勿論、エマーソンのように自然の中でとけ込んで生活していた人もごく少数ながらいたわけですが、例えばネイティブ・アメリカンが自然からいろいろなものを借りて自分たちは生きている、トーテムのイメージを含めて自分たちは自然の一部だと感じている感覚とはずいぶんと違うでしょう。
 
あるネイティブ・カナディアンがこう言っています。「我々は白人からいつでも遅いと言われ続けてきた。我々からすれば、着くべき時に着いているだけなんだ。」また、彼らにとって儀式というのは、自然の中でその時間の流れを感じ取り、自然とのつながりを全身で感じ取るための作業であり、過程なのだそうです。収穫の儀式ならば、稔りに至るまでの時間の長さを、食物が成長するための太陽や水や大地をイメージし、体と心で認識することなのでしょう。つまり、全体性を認識する作業なのです。



 包まれてある自然観の例

 もうお分かりと思いますが、「間」とは「包まれてある感覚」なのです。包まれてあるからこそ、自身が行為を止めていても、それは「間」という一つの実体のごとき時間あるいは包んでいる自然=空間を認識するのです。
 なぜ、僕らは「間」などというものを、あたかも秘伝のように、我々固有のもののように扱ってしまうのか?それは、
「間」の認識により「全体」あるいは「全体性」を認識し、自然やそして他者と「つながっている自分」を見いだすことができるからなのです。それは、それらの一部としての自分を受け入れることで、自然そのものをあるがままに受け入れ、よしと肯定することなのです。仮にこれを「受容と肯定の感覚」と呼んでおきます。


自然の中に包まれている個人と自然のやりとり、
あるいは自然に包まれて「つながりながら」行う個人と個人のやりとり



◇禅の話  

 音の話に戻りましょう。有名な禅の公案に「片手の音は如何に?」というのがあります。勿論、公案には模範解答はなく、いわば修行者の気づき=瞑想を深めるための素材です。
 一つの、しかしつまらない答えは、例えばフィンガースナップでならす片手の音です。片手でこする音もこれに入ります。しかし、こんな答えには何の生産性もない。
 大サービスでオリジナルの答えを一つ出しましょう。すなわち、この世界(心の中はのぞきます。それはまた別のお話。)には既に音が満ちている、ということです。風の音、鳥や虫の音、鐘の音や人々の暮らしの音。片手となることで、両手がなければ叩けないといった、硬直した思考パターンから自由になり、耳と心を澄ますことで、世界の音に気づく。それが片手の音です。

 ”alone”という言葉の、元の形を知っていますか?”all one”だそうです。全ては一つなのであり、われわれはその一部である。自分という個を認識することにより、全体をも認識する。いわば「全体性への気づき」あるいは「全体性の回復」が、包まれてある感覚のキーコンセプトのようです。
 その点、自分自身で自立しなければならない、依存は恥だ、という自立幻想では「個」だけが、つまり”alone”だけが肥大化し、”all”は自己を正当化するための共同体や社会の論理にすりかえられてしまいます。

◇包むものとしての「生態系」あるいはエコロジーの話


 勿論、西欧人が全て二極的な思考をしているとは思いません。様々な思潮の中に、全体性をイメージさせるものが時代時代で相当あったと思いますが、傾向としては「われ思う、ゆえにわれあり」的な人間中心的な(「ヒューマニスティック」ともいいますが)ものが主流だと思われます。
 その点、エコロジーの考え方は、実利的な面と思想的な面を統合した全体イメージとして出色のものだと思います。「宇宙船地球号」というコンセプトも全体性と相互依存をわかりやすく集約したものとして非常に重要です。”whole earth”あるいは「ガイア」という考え方は、これらの延長線上にあると思います。
 エコロジーは「生態系」という全体像の中で、食物連鎖という「相互依存」関係を明確にしています。しかし、それに包まれてあると、人々は思っているのでしょうか?
 おそらくは、どのようにしてそれらを制御するか、という工学的観点から眺めていないか。「保護」すべき自然、「保全」すべき資源(誰のために、何のために)として生態系を見ていないか。エコロジーとそれに関連する各種ムーブメントについては、勉強できていませんが、一般的には応用工学的なイメージがどうしても残るようです。
 それに包まれ、受け入れて共に生きる、というイメージはないか。つまり、それをよしとして受け入れるイメージ、「受容と肯定の感覚」はないか?


◇エコロジーと仏教思想の話

 では、一つのまとめとして西欧のエコロジカルな考え方を、東洋思想的な捉え方と照合してみましょう。
 僕は、基本的には原始仏教「的」な世界観を持っている人間なので、そのへんから入ってみましょう。

 1.無常(一切が流れ変化する。人は年老いて死に、別れが必然。それらに渇愛=執着を持つため、人の
       煩悩は絶えることがない。)
   ↓↑

   熱力学の第二法則(エントロピーは増大し、宇宙は熱的に死=無に向かい、情報は離散する。
                それを逆向きにできるのは生命。
                ただし、複雑系の自己組織化もこれにはいるような気がするんだけど。)

2.輪廻転生(人は生前積んだ業=カルマにより、様々なものに転生する。それは終わることのない苦しみ。
         川の水は常に別の水に変わっていくが、水は巡り巡って常に総体としての川の形を保つ。
   ↓↑                  → 「恒常性(ホメオスタシス)」を思い出しませんか?)

  食物連鎖と生態系(生物は互いに食い食われて種としての保存において相互依存し、それらの依存関係の
              総体として生態系ができ、これらは一定の形を保っていく。)

 ※ただし、僕自身は原始仏教思想の根底にある輪廻転生の思想(ヒンドゥー教も同じ)を信じてはいません。人は死して微生物により元素に還元され、様々な命やものに形を変えていくという、エコロジカルな考え方には共感しますが。
 しかし一方で、一切があるべき所にあり、一切が美しいという感覚は強く持っています。


3.解脱(執着を絶ち着ることにより自由となり、煩悩を断ち切ること。そして、輪廻転生の輪の外側に脱出して、
      涅槃=永遠の安息に至ること)

   ↓↑ 

  リサイクル・省エネによる生態系への依存の解消自立的生活

 この辺は、解説を始めるときりがなく、僕自身も勉強をし直さなくてはならないので、イメージ的なものとして、とりあえずとらえましょう。勿論こじつけめいたところもないではなく、完全にパラレルではないのですが、結構呼応しているものがあることに気づきませんか?
 つまり西欧人に「間=包まれてある受容と肯定の感覚」を伝えるには、単にエコロジカルな比喩や表現がわかりやすいのではないか、というだけでなく、その両者に通底する包んでいる自然や生態系への理解と受容への「気づき」を促すことが共通項= Commonpoint として重要ではないか、ということです。
 それにより、例えば環境問題一つをとってみても、自分の国さえ良ければいい、というユニラテラリズムは、トータルな相互依存関係の中で成り立たない、ということへの理解を促せるのではないでしょうか?
 しかし、我々自身がどれだけそれをふまえて日々の生活を送っているのでしょうか?栓をひねればお湯が出る、というのは当たり前ではない。自然の中で何世代も前の先祖の努力に感謝し、何世代も先の子孫のことを考えながら消費する、そんな事ができているのだろうか?そういう「歴史的に包まれてある感覚」、「伝統」「モラル」は持ち得ているのだろうか?
【続く。.......かな?】


 (補足)強迫神経症としてのアメリカ合衆国の話

 西欧の雄である一つの国を見てみましょう。岸田秀さんという精神分析学者が「アメリカを精神分析する」(1977.11)という文章を書いています。(「続ものぐさ精神分析」中公文庫)
 そこでは、こう書かれています。アメリカの歴史は欺瞞の歴史である。なぜなら、聖徒とされるピルグリムファーザーズ達は、大地を共有しようとさえした友好的なネイティブ・アメリカン達を冷酷に虐殺し、その土地を奪った人たちである。建国の歴史そのものが、欺瞞の上に成り立っている。「その結果、自由と民主主義は裏切りと暴力を正当化する口実に過ぎなくなり、・・・・・自由と民主主義の現れであることを証明するために、際限なく強迫的に裏切りと暴力が繰り返されることになった。」そしてアメリカの対外侵略の歴史もまたこの強迫的反復の歴史である。それは、外国の半民主的な独裁政権に反対して、アメリカの自由と民主主義を守るという形をとる。そして、つねに第一発は相手側から撃たせ、アメリカはそれに反撃するためやむを得ず立ちあがったということになっている。」インディアンが攻撃してきたから騎兵隊の出番、メキシコからテキサスを奪ったときは、「アラモを忘れるな」、ハワイを奪ったときはハワイ人が作った新憲法の手続きを理由に、対日戦争は日本を追いつめに追いつめてパールハーバー、ベトナム戦争はねつ造されたトンキン湾事件。(最近のイラクは?)
 「しかし、ついにアメリカは、ベトナム戦争に敗北した。現在アメリカは幼いときからつづけてきた性格防衛機制が破綻した神経症者と同じ状態にある。これまで絶対視されていた、アメリカ的諸価値が疑われ、アメリカは混乱と葛藤の中にある。歴史の真実を直視する動きもすでに起こっている。・・・・・それを全面的に直視し得たとき、アメリカは性格神経症から解放されるであろう。
 もういちど、発行年月日をご覧願いたい。25年前の話である。しかし、今日もそれは多様なうねりを内包しているかもしれないが、基本的には治癒していないと思わざるを得ない。(近代日本の精神分裂病も治癒には程遠い。社会の業もまた深い。)そういう国であってみれば、ネイティブ・アメリカンの言うことに真剣に耳を傾ける人は少ないんだろうな。


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