最近読んだ本
「海辺のカフカ」とその書評について

 ロンドンに行くときに、「海辺のカフカ」と数冊の本を持っていった。体力的に、夜はちゃんと休む必要があるし、食事が出されてくるまでの合間に、何か読むものが必要だったからだ。(長い一人暮らしの知恵。)

 なじんだ世界で面白かったけれど、村上春樹の小説によくあるように、一読では全体の構図がもうひとつすっきりと体に入らず、もう一度、ゆっくり読まなければ、と思っていた。

 そこへ、今日('02.10.16)の朝日新聞に、『「海辺のカフカ」は傑作か?~村上春樹の最新長編を3氏が読む』と題して載せられていた書評があまりにひどい内容だったので、頭に来てこれを書くことにしました。(新聞記事は後掲

村上春樹と僕

 最初に僕の村上春樹へのスタンスを明確にしておこう。彼は僕と同い年で、兵庫県芦屋市出身である。(ちなみに僕が結婚して一時住んでいた芦屋浜のマンション群の開発で、かれの生家は今はないようである。)

 結論から言うと、村上春樹は池澤夏樹と並んで、僕には重要な同時代の作家である。それは、例えば同じような時代経験をしていることからくる親しみやすさや、長い間ジャズ喫茶をやっており、音楽フリークで中古LPレコードを集めており、僕の好きな曲と結構重なっていることもあってなじみやすい、というだけでは決してない。

「風の歌を聞け」、「1973年のピンボール」は折にふれて読む。どこかにジェイズ・バーみたいな飲み屋が無いかとしみじみ思うし、文章も素晴らしい。「ピンボール」の最初の方に、郊外の退屈な駅の春を描写しているところなど、カミュがアルジェの住まいに差し込む冬の太陽を書いている「手帖」の1節を彷彿とさせる。
 そして
3部作の最後「羊をめぐる冒険」では、本当に涙が出た。純粋な悪の力である「羊」をこの世から消すために、自らの命を捨てる親友の「ねずみ」。これを読んで、涙を流さないような奴とは、絶対に友達になりたくないし、なれないと思う

 いまでもこれが彼の最高傑作だと思うし、これを越えるものがいつか出てくることを期待しながら読み続けている訳だ。
 とはいえ、かれの小説全てを凄いと思っているわけではない。いかにも女性受けのするシティ感覚というかムード的な小説だと思われている訳で、そういう要素(ときどき出てくるあまりに鮮やかな小道具やエピソード)がベストセラーの背景にあることも間違いないと思う。でも、それだけの小説家では、絶対にない、と思う。

 今回、新潮社がHPを開いているのは文庫挟み込みのちらしで知っていたが、販促の一環と思って特に読んでいない。また、このページを書いている現在も、同HPは見ていない。

書評についての私見

 本作はかなりストーリーが込み入っており、今回の書評の問題点もその整理不足というのが大きな原因だと思う。本来は、ストーリーなり全体の構図をまず整理しておくべきだが、読んだことのある人も多いと思うし、長くなるので後掲します。
 さて、いよいよ本題の書評についてだが、新聞記事は別掲を見ていただくこととして、気になる点をあげていこう。

1.宮台真司氏(社会学者)

◆まず、「かつて現実の希薄化の中での退行的な感受性(探しものモチーフ)を描いた村上春樹は、オウム事件直後の『アンダーグラウンド』で現実の希薄化に抗する「真の物語」が必要だとの「凡庸な立場」を取った後、『神の子どもたちはみな踊る』で物語(条理)よりも世界の外を暗示する特異点(不条理)こそが辛うじて生きる動機づけを与えるという「深い立場」に移行した。」という点。

 僕は『アンダーグラウンド』は立ち読みした程度なので、読み込んだ上ではないが、村上春樹がこの事件に関心を抱いた背景は十分に想像できる。つまり、「純粋な悪」という問題意識だ。これは、『羊をめぐる冒険』以降、一貫して探求されているものだ。『ねじまき鳥クロニクル』での「綿谷ノボル」もこれに当たる。本作との関係で行けば、その方が重要だと思う。
「父親」=「ジョニーウオーカー」=「不気味な意志、生かしておくべきではない白いもの」がこれに当たる。(後掲ストーリー参照)
 別のものを持ち出して論じるのは、余りフェアとは言えず、申し訳ないのですが、つまりは「現実の希薄化中での退行的な感受性(探しものモチーフ)」というのは、宮台氏自身の問題意識ではないのか、という気がします。

 『世界の外を暗示する特異点(不条理)こそが辛うじて生きる動機づけを与えるという「深い立場」』というのは、定義がよく分かりませんが、メタファーを用いるということは、不条理なのでしょうか?世界の外の物語と現実とをパラレルに、そのまま一つのものとして飲み込んではいけないのでしょうか?村上春樹氏は、物語の形と力を借り、メタファーを用いて、全体像を語ろうとしているのではありませんか?

◆そしてより重要な、『さて本作では、「現実」は生きるに足らずとの「脱社会的」感受性を生きる主人公は、大切な存在(母)から「自分を記憶してくれ」と頼まれることで辛うじて「現実」を生きる動機を得る。前作と比べて、この中途半端な現実回帰は全く説得力を欠く。」という点。

 多分、宮台氏は村上春樹の小説そのものが余りお好きではないのだろう。しかし、主人公は「そこにいると、自分があとに引き返せないくらい損なわれていくような気がした」から、家出を敢行し、「かたく封をされた重要な親書をたずさえた、自らのための密使」として、「僕には母に愛されるだけの資格がなかったのだろうか?」という痛切な疑問の答えを求めて、「森」に入っていくのです。
 
主人公が現実に戻っていくのは、自分が愛されていたということ、そして自分が何者であるかと言うことの答えが、まずは得られたからなのだ。そして「心の中で、凍っていたなにかが音をたて」たからだ。
 
「現実は生きるに足らず」と、どこで主人公が言っているのだろう。生き続ける意志が失われているのは、佐伯さんの方だというのに

◆宮台氏の評は3氏の中では、一番骨太だと思うが、自分の問題意識にとらわれて、テキストに沿って素直に読み込んでいるとは思えない。硬直したものを感じるのは、僕だけだろうか?

 村上春樹の小説がいつも宙ぶらりんなのは、いずれも途上だからだと思う。主人公たちの優柔不断は、確かに現実感覚の希薄さという点はあるが、優しさや問い続ける不安定さとは、受け止められないのでしょうか?


2.加藤典洋氏(文芸評論家)

◆「評論のための評論」という感じのする書評。

なぜ「もう謎解きではない」のだろうか?主人公は大きな疑問を抱え続けて進んでいるというのに。読者は謎解きの欲望を感じない、という意味でしょうか?
 「現実の引力が小説の中に生きていて、非現実的なことが現実に照らしておかしいと感じられるのが謎だが、」というのは何をおっしゃりたいのか、よく分からない。現実にてらしておかしいと感じる非現実的な事が謎、というのなら具体性を欠き、また謎の定義としても適切ではない。

「視点人物は15歳の心を閉ざした少年で、読者の共感を得るのが難しい設定になっている。そこも大事だ。少年は小さいころ母親に捨てられて、実は完全に壊れている。『どんな気持ちがするのか』と人を殺した数年前の少年のようだ。」というのは本気で言っておられるのだろうか?

 文中、大島さんの言う「君は立派に鍛え上げられた肉体を持っている。誰から譲り受けたものであれ、顔だってなかなかハンサムだ。・・・頭もちゃんと回転している。・・・」という表現は主人公に対するただの励ましですか?
 全体の内容を把握されていない、としか言いようがないと思います。

◆「なぜ父親にこだわるのか、憎むのか、明らかではない。」とのことですが、ちゃんと書かれているではないですか?
 (別掲ストーリー) 

◆「すべては少年の妄想かもしれない。でもデタラメにでも物語をデッチあげ、その物語を解くことでしか外に出られないということが現実にはしばしばある。ここにはその回復の切実さがよく出ている。」というのは、ある意味では当たっているかもしれません。でも、メタファーとしても、それを一応は受け止めないとしたら、あまりにもイージーな整理の仕方だと思います。


3.坪内祐三氏(評論家)

◆今回の中では、これに一番大きな違和感を覚える。

「図書館のリアリティー」というのは何ですか?そんなものが一般的に定義できますか?

 「オイディプスを物語の枠組みにもってくるのはあんまりです。」というのは、なぜですか?
 文中。大島さんが言う
「オイディプス王の場合、怠惰とか愚鈍さによってではなく、その勇敢さと正直さによってまさに彼の悲劇はもたらされる。そこに不可避のアイロニーが生まれる。・・・・・世界の万物はメタファーだ。誰もが実際に父親を殺し、母親と交わるわけではない。そうだね?つまり僕らはメタファーという装置をとおしてアイロニーを受け入れる。そして自らを深め広げる。」ということことの意味が分かりませんか?そのために、ナカタさんを、氏のいう「よくある『聖なる愚者』を主役の一人にしている」のですから。ついでに言うと、それが何でネガティブな言い方をされなければならないのでしょうか?

◆「小説家が勉強することは重要だけど、学習成果をそのまま作品に反映させてしまったら普通の読者はシラけてしまいます。しかしそういう思わせぶりが多いほど逆に春樹フアンはそこを読み込めるのでしょうね。」というのは、「普通の読者」と「春樹ファン」を対置させておられるのでしょうか?いわゆる「春樹ファン」はちょっと難しいこと、例えば氏の言われる「ユング心理学の影響が強く感じられます」というような言説を示されるだけで、コロッとだまされるようなものだとおっしゃりたいのでしょうか?

 いちいちあげるのがいやになってくるので、これ以上並べませんが、カジュアルな口調で読者におもねりながら、そのくせ文章はほめて、言葉使いや設定(誰が「内ゲバ死の若者を神格化している」のだろう?)など、取っつきやすいところをとりあえずけなして、バランスをとりにいっているようにしか見えません。

4.全体として

 はっきり言いますが、「海辺のカフカ」は大傑作だとは僕は思いません。「羊をめぐる冒険」から比べてもインパクトは大きくない。しかし、ここには一貫した誠実さがある。掘り下げがある。螺旋を描きながら、掘り下げているのかもしれないし、作者の思いが離れがたい繰り返しなのかもしれないし、全体像はまだ見えていない。

 しかし、この書評にあるような評価を受けるようなものでないことだけは確かだ。売れているけど傑作ではない、という答えありきの評論ように見えて仕方がない。3氏ともに、ご自分の「プロ?」としての視点が先にあり、テキストに沿ってじっくり読んだとは思えないし、この人達の書いた文章は今後特に読みたいとは思わない。

 繰り返すが、僕は盲目的な春樹ファンではないし、そうなるつもりもない。しかし、上下で3,200円するこの作品が売れているのは、常習的なファンもいるだろうが、何かを守ろうという優しさや、自分を突き放せるしなやかさをなんらかの形で感じ取り、共感を持っているからではないでしょうか?

 坪内氏は「まともな大人が一人も登場しないのが不満」と言われるが、大島さんという人物、生物学的には女性であり、しかし意識は男性であり、自分の体を厭いながらも、アイロニーをもって真摯に生きている、このような優れて大人である人物像を読めるだけでも十分値打ちはあると思う。ついでに言うと、カーネル・サンダースがホシノくんをポン引きする下りは、腹を抱えて笑ってしまった。ベルグソンやヘーゲルを講じるセックス・マシンねえ。

 もうひとつ気に入っているシーンを一つ。

「サングラスはもっているね?」
僕はうなずいて、ポケットから濃いスカイブルーのレヴォのサングラスを取りだし、かける。
「クールだ」と大島さんは僕の顔を見て言う。「そうだな、ちょっと、帽子を後ろ向きにかぶってごらん」
僕は言われたとおり帽子のひさしを後ろのほうにやる。
大島さんはもう一度うなずく。「いいね。育ちのいいラップシンガーみたいだ」

「海辺のカフカ」のストーリー

 あくまで僕流であるが、「海辺のカフカ」の構図を整理しておこう。この辺の理解がとても重要だと思う。大きく2つの流れがあり、最後に1つになる。主人公とナカタさんは遂に会うことはない。

1.田村カフカと佐伯さんの流れ

 主人公は「田村カフカ」という15歳の少年。(ちなみにカフカはチェコ語でカラスの意。)

 父親は才能ある彫刻家であるが、回りの人間を損なっていく毒を持っている人物で、主人公に「おまえはいつかその手で父親を殺し、いつか母親と交わることになる。」と予言する。
【現実の影であるメタファーの世界では、父親は猫を次々と殺し、それで笛を作り、いずれ宇宙的に大きな笛を作ろうとしている、ジョニーウオーカー】

 主人公が4歳になるまで、母親と姉と4人家族で暮らしていた時の写真を大切に持っていおり、その暮らしが失われてしまったことに大きな苦しみを抱いてきた。彼は、父親との生活で自分が損なわれていくことに耐えられず、家出する。彼は高松に行き、不思議な図書館に滞在することになる。

 その図書館の責任者「佐伯さん」には、完全な愛の中で一緒に育ってきた幼なじみの恋人がいたが、年をとるにつれて、その楽園が損なわれていくことに耐えられず、時をとどめようとして、たまたま巡ってきた「入り口」を開けてしまう。
【メタファーの世界では、森の奥の村に入り口は通じており、そこでは15歳の彼女がいる。そのため、佐伯さんには影が半分しかない。そして、彼女の「生き霊」つまり森の奥にいる半身が、絵を見に真夜中にやってきて、主人公はその少女に恋をしてしまう。】
 結局、現実の世界で彼女の恋人は東京で殺されてしまい、彼女は停まった時間の中で、恋人の実家の書籍を管理する図書館の責任者になる。「海辺のカフカ」は、彼女が作って一度だけ大ヒットした歌の題名であり、恋人が描かれた絵のタイトル。

 そして、主人公もそう感じているのだけれど、実は彼が探し求める母親が「佐伯さん」。
 主人公は自分の気持ちにしたがい、というよりも強い流れの中で、「佐伯さん」を求め、交わる。(でも全然いやらしくない。とても切なく悲しく優しい出来事だ。)

  そしてナカタさんが「ジョニーウオーカー」を刺し殺した時、彼は意識を失い血だらけのシャツをきたまま目覚める。東京で父親の「彫刻家田村氏刺殺される」という新聞記事が出て、警察が動き出したこともあり、図書館の「大島さん」のすすめで、「森」の山荘に隠れる。

 

2.ナカタさんとホシノくんの流れ

 小学生時代に「森」の中で起こった時間のせいで、ナカタさんは読み書きをはじめとした能力を失い、影が半分だけの人間としてつつましく生きている。彼は猫と話すことができるので、猫探しを頼まれ、その途上探している猫を捕らえている「ジョニーウオーカー」に出会う。「ジョニーウオーカー」はナカタさんに自分を殺すことを求め、勿論それを拒むナカタさんの目の前で、猫を殺し始めるため、耐えきれずにナカタさんは【そこにいるはずの15歳の少年のかわりに】「ジョニーウオーカー」を刺し殺してしまう。彼は交番に自首するが血も浴びておらず、全く相手にされない。

 そして彼はあと半分の影をとりもどすため、「入り口の石」を探しに、ホシノくんという気のいい運転手に助けてもらって高松に向かう。そしてホシノくんは、この世の者ではない不思議な存在「カーネル・サンダース」の導きで「入り口の石」に出会い、「いろんなものをあるべきかたちに戻すために」ナカタさんとともにそれを開ける。
【ここで入り口が開いたので、主人公は入り口を通る事ができた。】

 会社をやめて一緒に来るホシノくんの手を借りて、ナカタさんは遂に図書館を見つけ、佐伯さんに合う。
【半分しか影のない2人の出会い】

 佐伯さんは自分が入り口を開けたために歪みをもたらしたのではないかと恐れ、人生が終わってしまった20歳以降に、必要以上に長く生き続けることによって、主人公を含め関わった多くの人々やものごとを損なってきた、と言い、そして自分の記憶を全てしるしたファイルの焼却をナカタさんに依頼する。

 そののち佐伯さんは穏やかに死ぬ。ナカタさんはその約束を果たし、深い眠りの中で穏やかに死ぬ。

3.終わりの始まり

 全ての答えを求めて、主人公は森のなかに踏入り、入り口から村に入り15歳の佐伯さんに出会うが、彼女にはそれは大きな意味を持たない。

【メタファーの世界の森で、主人公=カラスと呼ばれる少年は、死んだ後で次の世界に入ろうとする「移行する魂」である「ジョニーウオーカー」つまり父親に出会う。彼はカラスと呼ばれる少年を挑発し、少年は哄笑する彼を襲ってその舌を引きずり出すが、それは軟体動物のようにはい回り、うつろな笑い声だけが残る。】

 そして佐伯さんが、別れを告げに主人公を訪れる。主人公は彼女の恋人でもあり、既に「海辺のカフカ」の絵の中にいたこと、そして、何よりも愛していたこと、捨てなければならなかったのだけれど、それは間違っていたことを、彼女は告げる。かれは彼女を許す。彼女は、自分を覚えていること、絵を持ち続けること、そして元の世界に戻って生き続けることを求めて去る。

 そして、彼は森を抜けて山荘に戻る。

 ホシノくんは、黒猫のトロの話に応じて、「入り口の石」を閉じて、そこに入り込もうとする不気味な意志、生かしておくべきではない白いものを殺す。そして、彼は名古屋に帰る。

 主人公は、「大島さん」に別れを告げて、東京に戻る。


【新聞記事】

『海辺のカフカ』は傑作か

   村上春樹の最新長編を3氏が読む    朝日新聞 2002年10月16日(水)朝刊

 「あれ読んだ?」。
文芸書の感想を聞くのがあいさつがわりになるのは久々のことだ。村上春樹の長編『海辺のカフカ』(新潮社)が話題をさらっている。現在、上下巻合わせて58万部のベストセラーとなった。期間限定で開かれたインターネットのサイトヘは、ひと月で4千通もの感想が寄せられている。

 村上作品には珍しく、主人公は少年。15歳の誕生日の前夜、二度と戻らぬ決意で旅に出た少年の物語と、少年期に特異な体験をした風変わりな初老の男性の旅が、交互に紡がれ進んでいく。この話題作を、文芸評論家の加藤典洋さん、評論家の坪内祐三さん、社会学者の宮台真司さんはどう読んだか

宮台真司さん    説得力を欠く現実回帰

 本作を読むと江戸川乱歩『押絵と旅する男』を思い出す。覗きカラクリの押絵の美少女に恋した兄は「現実」を断念。自ら押絵の中に閉じ込められて美少女の隣で永遠に生きる。弟はその押絵と旅をする-。

 急速な近代化で、「現実」の物も人も「入れ替え可能」な存在になりゆく大正期、あえて「入れ替え不可能」な存在たらんと欲すれば「押絵と旅する」=「現実を断念する」以外ないとのペシミズムがあった。

 かつて現実の希薄化の中での退行的な感受性(探しものモチーフ)を描いた村上春樹は、オウム事件直後の『アンダーグラウンド』で現実の希薄化に抗する「真の物語」が必要だとの「凡庸な立場」を取った後、『神の子どもたちはみな踊る』で物語(条理)よりも世界の外を暗示する特異点(不条理)こそが辛うじて生きる動機づけを与えるという「深い立場」に移行した。さて本作では、「現実」は生きるに足らずとの「脱社会的」感受性を生きる主人公は、大切な存在(母)から「自分を記憶してくれ」と頼まれることで辛うじて「現実」を生きる動機を得る。前作と比べて、この中途半端な現実回帰は全く説得力を欠く。

 あえて今日的な部分を拾えば、乱歩的な「現実断念の痛切さ」はもはやあり得ず、「現実」を生きることと断念することの間にさしたる距離がないとの感受性か。読者の側の現実感覚の希薄化に平行してはいるが、共通感覚の共同体に安住する安易さは否めない。


加藤典洋さん    世界文学水準で圧倒的

 読後感は圧倒的だ。世界文学水準で、今までの作品から完全に離陸していると感じた。
 もう謎ときではないということがその証しだ。現実の引力が小説の中に生きていて、非現実的なことが現実に照らしておかしいと感じられるのが謎だが、今回の小説はもうその謎解きの欲望を喚起しない。「オズの魔法使い」式に別の小説の文法で書かれている。小説に星野青年が満身の力で「入り口の石」をひっくり返し違う世界に入る場面があるが、書き手も何かをひっくり返している。これは彼の実感だろう。

 ナカタさんや星野青年の造形には『アンダーグラウンド』を通過した感触がある。村上の小説にはじめて普通の人が登場した。作家としての成熟、ドストエフスキーにおける「民衆の発見」を思わせる。サリン事件の被害者に時間をかけインタビューしたが、その経験が見事に生きている。

 視点人物は15歳の心を閉ざした少年で、読者の共感を得るのが難しい設定になっている。そこも大事だ。少年は小さいころ母親に捨てられて、実は完全に壊れている。「どんな気持ちがするのか」と人を殺した数年前の少年のようだ。

 なぜ父親にこだわるのか、憎むのか、明らかではない。けれど僕はその設定を諒とする。すべては少年の妄想かもしれない。でもデタラメにでも物語をデッチあげ、その物語を解くことでしか外に出られないということが現実にはしばしばある。ここにはその回復の切実さがよく出ている。

坪内祐三さん      あまりに文章巧すぎて

 僕が村上春樹の長編小説を読んだのはこの作品の主人公の少年が生まれた年に出た『ノルウェイの森』を中途挫折して以来だから本当に久しぶりですが、小説家村上春樹の文章表現能力がさらにグレードアップしているので驚きました。ずんずん読み進めることができました。しかしだからこそ、つまり文章が巧すぎるからこそ、描かれた中身の思わせぶりがかえって気になりました。

 よくある「聖なる愚者」を主役の一人にしているし、図書館を舞台にしているのに図書館的リアリティーに欠けるし、オイディプスを物語の枠組みにもってくるのはあんまりです。古今東西の文学者や哲学者たちの言葉がベタな感じで登場人物たちの口から諮られ、(直接言及されてはいないものの)ユング心理学の影響が強く感じられますが、小説家が勉強することは重要だけど、学習成果をそのまま作品に反映させてしまったら普通の読者はシラけてしまいます。しかしそういう思わせぶりが多いほど逆に春樹フアンはそこを読み込めるのでしょうね。

 それから内ゲバ死の若者を神格化しているのには、村上さんあなたもしょせんは全共闘世代ですかと毒づきたくなりましたし、まともな大人が一人も登場しないのも不満です。その中ではっこういい味を出しているのは「さくら」と「豊野青年」ですが、その「星野青年」が「俺っち」という妙な言葉を連発するのはいかがなものでしょう。今時の15歳の少年がソーダ・クラッカー好きなのも不自然です。



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